鈴木泰博
電子計算機(コンピュータ)が実用化されコンピュータサイエンス(計算機科学)が誕生してから計算は主に道具として用いられてきた. 計算機科学は物理学や生物学のように自然を対象とせず, 計算機をいかにうまく使うか, について研究を行ってきた. よって計算機科学は自然科学ではなく計算機という人工物に関する科学を行ってきた. この人工物科学の成果を生かして, 文理を問わずほぼすべての学問分野を横断して応用研究が行われ, それぞれの研究分野には''計算○○学''との名称がつけられた. この''○○''のなかには, それぞれの研究分野のなまえが入る.
そこで, 計算機科学は自然科学と共同研究することにより, 自然科学に参加させていただいてきた. たとえば計算物理学, 計算生物学, 計算化学など自然科学との共同研究はすべて自然科学である. だがそれらは,物理学であり, 生物学であり,化学である. よって計算○○学ではすべて○○学への貢献が求められる. 例えば,生物学に寄与しない計算生物学の研究は,生物学の研究としては受け入れられないため, 計算生物学の研究としても受け入れられない.
では, この逆に生物学には寄与しないが, 計算機科学に寄与する生物学研究はあるだろうか.つまり''計算○○''学の反対の''○○計算''学ということになるが,こうした研究は少ない, だが長い歴史をもつ.
○○計算学とはじつに奇特な研究である. そしてこうした奇特な○○計算学研究はとっても面白い. 非線形化学反応や粘菌で迷路を解いたり, ビリヤードの弾性衝突をつかって論理回路をつくったり, 残念ながら研究者人口は極めて少ないが''こんなものでも計算できるんだ!!''という驚きと面白さがある. そしてこの興味深い奇特な研究こそが狭義の「自然計算」研究である.
こうした狭義の自然計算でのいくつかは, ○○計算学(狭義の自然計算)であり計算○○学でもある見事な研究がある. もっとも成功したのは脳のしくみを計算化したニューラルネットワークで, その研究成果は計算科学やロボット工学にとって有用なだけでなく, 脳科学にも有用なものとなっている. 他にも生命の進化を計算化した進化計算系は最適化計算の手法として工学的に有用でもあるし, 生物の進化を考察するための方法として生物学にとっても有用である.
そのほかにも例えば, DNAを用いた計算は, 当初は電子計算機の行う計算を模倣するものであったが, 21世紀に入ってから分子ナノテクノロジーの手法として成長している. こうした''成功した自然計算''は独立した分野となって発展している\footnote{''成功した自然計算''の分野は, ニューラルネットワーク, 進化計算,分子計算,などの''大看板''となっているので, 必要がなければ敢えて''自然計算''などという看板をさげる必要がないのである}.
また粘菌による最短経路検索\cite{nakagaki}\cite{andy}も成功した自然計算のひとつである. ``最適化計算をさせる''という制約下で粘菌の行動をしらべることから粘菌の行動について生物学的な知見を得て, さらに粘菌の行動に模した経路探索アルゴリズムを得ている.
計算のように分野横断的に用いられている数理的手法には''数学''がある.数学は文理を問わず分野横断的に展開していくなかで, 必要に応じて新たに数学をつくったり, 抽象的な理論の応用を行ったりしながら数学を豊かに成長させてきた. 数学を用いる場合には現象を数学と言語として記述し, それを数学に持ち込んで種々の方法を用いて考察する場合が多い.
一方, 計算機科学でも文理を問わず分野横断的に展開していくなかで, 必要に応じて新たな計算モデルをつくったり, オブジェクト指向のような新たなプログラミング言語をつくったり, 抽象理論を発展させたりしながら計算機言語を豊かに発展させてきた. しかしながら, 計算機科学を用いる場合には計算を言語として記述するが, それを計算機科学に持ち帰ってきても数学とちがって考察する方法がない. なので, ほかの数理的方法をもちいて考察することになる. これは計算機科学が人工物科学であるから''仕方ない''のである.
計算機科学は「チューリングマシン」とよばれる計算の理論モデルが''創造主''となり, その創造主たるチューリングマシンの''御心(宇宙)''のなかで, はぐくまれてきた. 計算機科学とはその創造主が作りし宇宙を考察する''神学''である.
チューリングの宇宙は''アルゴリズム''とよばれる``ことば''でつくられている.計算機科学はアルゴリズム, アルゴリズム計算量, ソフトウェア科学(プログラム検証,代数的仕様記述, ほか)など''ことば''に関する研究, チューリング宇宙のなかで諸行無常に生成消滅-毀誉褒貶をくりかえす, さまざまな計算系や概念が, 創造主たるチューリングマシンとどのような関係にあるかを明らかにする理論研究, などを土台としてさまざまな情報文化が宇宙のなかに育まれてきた.
チューリング宇宙はその''開闢''からまだあまり時間もたっておらず, これまで計算機科学はチューリグ宇宙の''探査''にもっぱら従事してきた. なので, その成果を生かして''シミュレーションして差し上げること''は得意であり, ほかの分野の研究者から求められることも多い.
その分野の手法でうまくいっているのであれば, あまりシミュレーションは求められない. シミュレーションを求められるときは, さまざまな事情で''ほかに手がない''場合が多い. いざシミュレーションのためにプログラムをつくりはじめると, 最初に予想している以上に「シミュレーションの対象はわからないことだらけであることがわかる」.その分野に素人であるにわか計算○○学研究者にはどうしようもないので,その分野の''専門家''にたずねることになる. 運がよければ追加実験などしてパラメータを決めることもできるが, そもそも実験が不可能な条件の場合もあり, シミュレーションモデル作成は迷走をはじめる.
やがて, モデルは未知のパラメータだらけになり, 仕方がないのでランダムに変数を決めたりして, とりあえずシミュレーションをしてみると''ありとあらゆる結果''で満ちあふれてしまう. 収集がつかなくなったシミュレーション結果を考察するため, なにか''発注元''の分野の解析方法でも借りてきたくなるが, そもそもその分野で''ほかに手がない''からシミュレーションの依頼をうけたわけなので, そう都合よくいかない. やたらに数学書をひっくりかえし, 宝石のごとく美しい定理をみつけて色めき立つも, たいてい条件や設定も美しすぎて,泥にまみれた現実の問題には使えないことがほとんどである.
だからといって, 計算機科学の独自の手法をもちいて考察しよう!と思い立っても...''計算機科学は未だチューリング宇宙探索時代''にあることを思い知らされる. たとえば, たいていのシミュレーションは時間発展していくので, 時間と状態の変化,つまり「力学型」の振る舞いを調べたいとおもっても, 計算系の力学系的な振る舞いに関する理論的枠組みや、計算過程についての計算力学系のような方法論はほっとんど構築されてきていない.
ええいままよ!と計算機科学の道具箱をぜんぶひっくりかえしてみても, 出てくるのは''ことば(アルゴリズム)''に関する道具と, 宇宙内部の計算モデル間の地図, チューリングマシンまでの''距離や方向''をはかる道具ぐらいしかない.それも計算機科学が人工物科学であるため, 仕方がないことなのである.
ここでチューリング宇宙の住人としては, 「私たちはしょせん人工物科学ですから...」と卑下するのではなく, 「アルゴリズムや計算のことは計算機科学に!」と開きなおって受けてたつことを提唱したい. 他の宇宙に逃げず, 「計算機用」とラベルがはられている知的資産のラベルをはがして,(実績もなくて怖いけど勇気をもって)「自然科学用」と張りなおしてしまおう. そして使える道具をなんとか使って, 必要に応じて新たつくるなどして,真の意味での「自然科学としての計算機科学」を提案する. このような研究パラダイムを''一般計算科学''とよぶことにする.
方程式は数学や物理学で用いられてきた便利な道具である.道具としての方程式''は使い方によっては''栓抜き''のような特殊な道具ともなるし,
万能包丁''のように数多の現象をに用いることができる万能の道具ともなる. \方程式の''強み''はその高い一般性にある. たとえば,
は人口の動態の記述として数学化されたものだが, この方程式は人口のみならず,バクテリアの増殖やある種の生態系など様々な自然系の記述に用いられて, それらの自然系の振る舞いに統一的な理解を与えている.
あまり意識されていないが, (知る人ぞ知る)アルゴリズムも方程式と同様の高い一般性がある.
このアルゴリズムはそもそもPolya's urn(ポリヤの壷)とよばれる数学(確率過程)のアルゴリズムである. このアルゴリズムは計算機での計算に用いられるとマルチエージェントシステムの学習過程や,進化言語の変遷, そのほか物理, 化学,経済学など分野横断的に用いられている計算のアルゴリズムである.
アルゴリズムは計算機のためだけにあるのではなく, 文理を問わず分野横断的に使われてきた数理的方法なのである.方程式は数理科学の''華''である. それに対しアルゴリズムは, 計算機科学でこそ''華''であるが, 外へ踏み出してしまえば, ''道具''であり, 数理科学の主役に躍り出ることはない.
一般計算科学とは計算機科学の外の世界へと積極的に踏み出して''数理科学の主役としてアルゴリズムを使おう'', と提唱するものである. 計算機科学にはアルゴリズムについての膨大な知的資産がある. ``何々ソート''や''何々マッチング''のアルゴリズムは, もしかしたら複数の細胞の自己組織化や企業間の相互作用の記述と読みかえることができるかもしれない. また、自然系をアルゴリズムとして理解する立場から, 新しいアルゴリズムがみつかるかもしれない.
ことばを使わずに考えることは不可能である. 私もアタマのなかでは日本語で考えている. なので文法も単語も全く異なる英語を使うとなると,''よろしくお願いします''をどう英語で云ったらいいのか, アジとシマアジの違いを英語でどう説明するのかに苦悶する.
言語にはそれぞれ特徴がある.''あなたは寿司が好きですか?''のようなかんたんな日本語の英訳ならば苦労しないが, ``よろしくお願いします''となると難しい.またアジとシマアジの違いとなると, 英語を使う民族や人々がどこまで魚のちがいを気にするかによる. つまり, 言語とは認識をつくる基本ソフトウエアである.
植民地学では被占領国の母国語を占領国の言語と入れ替えることを植民地の基本としている. 言語の使用を厳しく弾圧し(焚書を行うなどして可能なかぎり絶滅させる)占領国の言語の使用を強制することは, 被占領国の認識のソフトウェアをアンインストールして, 占領国の認識のソフトウェアをインストールして入れ替えることになる.
議論が大げさだと思うかもしれないが, いま日本語の使用が弾圧-禁止されて英語の使用が義務づけられたとすると, もし弾圧に屈してしまえばニホンゴは消滅し何世代かあとのニッポンジンはアタマの中の英語で認識し考えるようになる. アタマの中が英語になっているニッポンジンが''よろしくお願いします''と云うのか, アジとシマアジの違いを気にするか...わからない\footnote{これと全く同様のことは, さまざまなレベルで日本内外で起きているのであるが}.
アタマのなかの言語は自然言語だけではない. 計算や数学もアタマのなかの言語である. 物理学, 生物学, 化学, 哲学などなど各々の学問分野はそれぞれが''言語''をもっていて, 研究者は各々の言語をつかって認識し考えている
以下ではアタマのなかの言語としての計算や数学などを''思考のメディア''とよぶことにする. 言語の場合と同様に``思考のメディア''は研究を行う際の認識と考え方の基本ソフトウェアであり, ○○学徒はその基本ソフトウェアに習熟することが求められる(基本ソフトウェアは一般には「○○学の常識」とよばれる
計算機科学はその生まれと育ちからこれまで''思考のメディア''であると認識されてこなかった. これは計算機科学から計算の歴史をさかのぼってみても同様である. 本書が歴史上はじめて計算を思考のメディアとして位置づけるわけではない. 計算, そして計算機科学の歴史をさかのぼってみると, 事実上は計算はひとつの思考のメディアとして存在していたことが示される. そして, その歴史は''思考のメディアとしての計算とは何か''を教えている.
思考のメディアとしての計算は''ものごと''を身も蓋もないものにしてしまう.なにしろ, 包み隠さずすべてを明らかに書ききることが身上であるため, 手品の種, 映画や小説の結末など「秘するが花」みたいなことには全く不向きである.
過去から現代まで栄枯盛衰の荒波をいくつも体現してきた人工知能などでは, チェスの世界チャンピオンやプロ棋士に勝ったり負けたり, 人間にしかできないと,ナイーブに, ぼんやり思ってたことを人工知能がやってしまったり, 失敗したりを繰り返している. そんな人工知能とは, 人智も及ばないような思考をしている...わけではない. 将棋のプログラムであれば名人上手が苦心惨憺して生み出した好守妙手を膨大に記憶し, それを盤面をうまく評価して高速に最適手を検索している. 人工知能をつくる側としては, いかに巧く人間の智慧を結晶化させるか, がミソになるわけであるが, そこも細部に至るまで明確に''どうやるか''が決められており, どこにも''未知なる''部分などない. 制作者以外がどう思うが自由だが, それをつくる者としては, そうなってあったりまえ, に計算化してアルゴリズムにできていなければプログラムはつくれない.
私たちは, その計算のどんな細部までもすべて詳細にわかっている..のに, その計算結果がまったくわからない, 可知を積み重ねたら不可知になってしまう..ということが起きてしまう. たとえばライフゲームは, どのように計算が行われているかはすべてわかっていて, どこにも不可知なところはない. だが計算結果は不可知なる宇宙になってしまって, 私たちはその宇宙を観測することしかできない..これは, DWAの立場で, 世界を細分化してとにかく詳細に調べていこう, という態度には悪いお知らせである. ずいぶんかかって「さぁ, 十分に世界を調べた. では, これらを組み合わせて世界を理解しよう!とすると..組み合わせ爆発を起こして可知なのに不可知なる世界をつくってしまうとも限らないからだ}.
この''身も蓋もなくすること''が「思考のメディアとしての計算」の本質である.だが自然について''身も蓋もなくす''まで完全理解することなどできない. だが,この思考のメディアは変わっていて, 計算化しようと四苦八苦する過程, それこそがこのメディアを使う大きな利点であり真骨頂である. 私たち人間に自然を完全に計算化することなどできない. だが, それでも敢えて計算化しようと四苦八苦することこそが, 私たちをより深い理解へと導いてくれる.
友達から「なんでそんなことするの!まったく意味がわからない」と云われると,私たちは「いや, 実はこれにはわけがあってね...」と説明してわかってもらおうとする. 数理論理学者は「すべて論理式で書けるから, しょせんすべては数理論理学」と主張するかもしれない. だが, 日常会話をすべて論理式にして, 定理証明による日常会話, を行うことは''なにか違う''とかんじる, たとえそれが数学的に正しいとしても. 論理が得意なヒトが, その能力を生かし完璧な論理で友人を完全に論破してばかりいると, うとまれる.
なぜか? 論理の計算を行うアタマの中の思考のメディアが違うのだ. 数理論理学では, アタマの中の言語は「数学」であり, アタマの中で自然言語の思考を数学の言語に翻訳して考える. 数学に翻訳するためには, すべての情報を綿密に記述することは不可能なので, 本質的とおもわれること, を残してあとの情報はすべて捨ててしまう. そして一度かっちりと定式化されたら, その定式化は揺るがない.
一方, 友達を説得する場合のロンリでは, その本人のアタマの中にある''ロンリ''を用いて思考する. その''ロンリ''は堅固で本人はとても強く信じていて''自分が正しい''と確信している. 数学の場合とおなじように, 自分のロンリにあわせて, 都合よく情報を捨てていくのだが, だがさまざまな状況を勘案して捨てる情報を変えていく. そして''ロンリ計算''の公理やロンリ計算の規則(導出原理)も時と場合によって変えてしまう(このような変化は''空気を読む''といわれる).
このように広い意味での論理(ロンリ)の計算は時空間的に変化していく. 他のひとからみたら''いい加減''だとか''風見鶏''だとか云われたとしても, 本人のロンリにおいては, まったくもって''合理的な言動''である. 「わかっちゃいるけどやめられない」とは, その行動による他人のロンリ計算の帰結は''わかっちゃいる''. だけれども, 当人のロンリ計算の帰結としては''やめられない''わけで,本人のなかでは合理的に行動しているのである.
一般計算科学の基盤は''広い意味でのの論理(ロンリ)''にあり, このロンリはアタマの中の思考の基盤となっている. 思考のメディアとは, このアタマの中のロンリや思考を外へだし(外化), 客観化してさらに動かすことを可能にさせる.したがって一般計算科学において, 思考のメディアは極めて重要であるため, 以下ではメディア論の立場から思考のメディアについて考察する.
私たちはアタマの中で思考のメディアをつかって考えている. 思考のメディアとは, 自然言語であり, 計算であり, 数学であり, とさまざまにある. この思考のメディアをつかうことで, アタマの中の思考を取りだすこともできる. たとえばアタマの中でイメージした思考を, 文字に書き下す, 方程式を書き下す,計算のアルゴリズムを書き下す, などによって取り出しすことができる. 思考のメディアをつかってアタマの中から取り出して, 外に出すことでアタマの中の思考を客観的にみることができる(外化).
アタマの中から思考を取り出す作業は簡単ではない. 計算の場合には, 身もふたもなくこと細かに, すべての処理や手続きをアルゴリズム(順序)として書き下すことが求められる. この作業には微塵でも曖昧なところは許されず, 身もふたもなく全て書き出す事が求められる. この作業をさぼると, あとで困ることになる(後述).
まずこの''思考の取り出し作業''のなかで, 新たな知の発見が行われる. そして,取り出された思考を客観的にながめることで, 不足や誤りがみつかる場合も多く,ながめることからも新たな知の発見がある.
さらに, 数学や計算などの思考のメディアでは, 取り出された思考を実際に動かしてみることができる. 数学のシステムとしての体系や, 計算機とは''取り出された思考''を動かすための「思考器械」である. この「思考器械」をつかって取り出された思考を動かしてみると, 自分のイメージと反する動きをすることがある.
また, アタマの中の思考から''身もふたもないアルゴリズムの取り出し作業''がきちんとできていないと, 思考器械がうまく動作せずに困ったことになる(これが''あとで困ること'').この思考器械は''ドミノ倒し''とまったく同じで, いかに自分の意にそぐわない動きをしたとしても, 器械の動きに介入することは, 絶対に, 許されない.それを許してしまうと, 思考器械を使う意味がなくなってしまうからだ.
思考のメディアについて, メディアそのものを考察してきたメディア論の立場からみる. M.マクルーハンは, メディアは''光''や''アタマの中の言語''のような''メディアの素粒子''が融合してさまざまメディアへと発展するとしている.
たとえばまず''アタマの中の言語''があり, そこに音(声帯振動)メディアが融合することで''話しことば''メディアがうまれる. そして話しことばメディアは,記述のための''文字メディア(文字がない口承言語もある)'' と発展していき,やがて活版術により活字メディアと融合して爆発的に発展していく.
思考のメディアとしての計算も同様である. アタマの中の言語から話しことばメディアまでは文字メディアと同様であるが, 思考の言語としての計算と融合してアルゴリズムという書き言葉メディアがうまれる. このアルゴリズムは書き言葉メディアであるので, 活字メディアとの融合することで新聞や本のような活字メディアともなる.
アルゴリズムが普通の文字メディアと大きく異なる点は, アルゴリズムは計算器をつかうと, 動かすことができる点である. べつに電子計算機がなくても動かし方さえわかれば原則としては誰でも, 同じように計算を行うことができて, 同じ結果がえられる.
アルゴリズムというメディアは時空を超えて''アタマの中の思考''を伝送することが可能である. それはホメロス(紀元前5世紀のギリシアの詩人)の詩に感動することとは異なる. ユークリッド(紀元前3世紀頃のギリシアの哲学者)の考えたアルゴリズムとは, ユークリッドのアタマの中の思考を, 身もふたもなくアルゴリズムとして記述したものである. そのアルゴリズムはどの時代でも文化でも,動かし方がわかっていればユークリッドがアタマの中で考えたのと同じ計算過程をたどり同じ答えが得られる. 一方, ホメロスの詩は時代や文化背景によって, 人によっても感動の仕方は異なる. そして''感動の仕方''はホメロスと同じであるかどうかはわからない.
アルゴリズムとはアタマの中の思考にとっての''書きことば''である. このメディアにより, 時空を超えて個人的なアタマの中の思考を記録, 編集, 頒布することが可能である. そして, アルゴリズムを動かすことで, 誰かのアタマの中の思考を, 他の誰かのアタマの中の思考へと伝送することが可能である. ほかの思考のためのメディアもこの, 思考の伝送機能, はあるが, それらのメディアでは実行のさせ方の自由度が大きい. だが, 計算の場合は, なにをどの順序でどうするかの考え方が身もふたもなくすべて書かれてしまっているので, より正確にアタマの中の思考を伝送することができる.
「メディア論」からすると一般計算科学には以下の3つの特徴があることになる.
また, 数学史家のS.マホーニ(Steven まほーに)は数学における代数学について,思考のメディア的な考察をしている. これをすこし拡張して一般の思考のメディアにあてはまるようにすると以下のようになる.
思考のメディアとしての計算の特徴は「身も蓋もなくする(計算化)」であり,直観性に優れている. ここでの直観性とは, わかりやすさのような感覚的な直感性と, ``論理の飛躍がない''といった直観性の2つの意味をもつ. 計算が特に優れているのは直観性である.
たとえば背理法での証明では「あること(命題)を否定し, そこから矛盾をひきだし, 二重否定により命題を証明する」. この仕方だと, 命題そのものについては触れずに, 命題を否定して導出された矛盾を以て間接的に命題を証明する.
これに対し計算化ではものごとの''身も蓋もなくすために'', 可能な限り単純な処理へと分割し, それらを組み合わせる. よって論理に飛躍は生じないため, 計算は論理的な直観性が高い.
可読性は,計算のメディアは人工言語(プログラミング言語)で記述されるため,高い. ここでの可読性とは, たとえば数学の方程式や化学式を, 記号を使わないで自然言語で記述して考察する, ような場合との比較である.
抽象性は高いのだが, 計算のアルゴリズムは各々の対象に応じてかなり特化されたものを使うので, 対象から離れたそれら自体にはあまり価値がみい出させてこなかった. 一般計算科学では計算のもつ抽象性に着目する. さまざまな対象に応じてつくられたアルゴリズムとは, アタマのなかの''思考のための人工言語''により認識, 考察された結果が, プログラミング言語などに''翻訳''されたものである. なので, それ自体を読み解くことは外国語の文献を読むことと同じであり,その文献を解釈していくことにより, その対象についての理解を深めることができる.
こうした計算のもつ抽象性への着目は, 科学哲学の分野ではすでに行われており,文献学的方法をもちいてオペレーティングシステムのような複雑で膨大なプログラムを''文献''とした文献学も行われている.
物理学者のリチャードファインマンは, 思考のメディアとしての計算について以下のように述べている(ファインマン計算機科学}
"Computer science also differ from physics in that it is not actually a science. It does not study natural objects"
「計算機科学はまた物理学とは異なるものである. それは, 実際のところ自然科学ではない. それは自然の事物を研究するのではないのである(拙訳)」としている.
だが, ファインマンは以下で紹介する''自然言語処理の受難''を例に「計算の仕方には,物事の本質を認識するための仕方としての側面がある」と指摘している.
"Computer science touches on a variety of deep issues. It hasilluminated the nature of language, which we thought we understood:early attempts at machine translation failed because the old-fashioned notions about about grammar failed to capture all the essentials oflanguage"
「計算機科学は本質的なさまざまな事象に触れることができる. 計算機科学は私 たちが理解していると思っていた自然言語が幻想に過ぎないことを明らかにし た. 機械翻訳研究の初期の研究の失敗は古いタイプの文法理論が言語の本質を 捕らえることに失敗していたからである(拙訳).
ファインマンの''計算機科学は自然科学ではない''とは慧眼であり, 彼の指摘はその後数十年を経た現在にいたるまで正しい. そして一般計算科学とは, 人工物科学であることを百も承知の上で, 敢然と自然科学へと踏み出そうという提唱である. チューリング宇宙についてはよくわかってきた. そろそろ次のフェーズへとうつる時である.
一般計算科学の立場からあらためて概観すると, 人工知能とはヒトの知能についての一般計算科学研究である. そこでは, 思考のメディアとしての計算が有する``書いてみてわかる(アタマの中の思考の外化)''と''動かしてみてわかる''の特徴が存分に発揮され, ファインマンが指摘するように, ヒトの知能や自然言語についての本質を明らかにした, とみなせる. 先述した人工知能研究における困難, フレーム問題, 自然言語処理の意味論の問題は, 思考のメディアとしての計算により発見されたものである.
フレーム問題
フレーム問題とは, 例えば人工知能を搭載したロボットなどを構築する場合に,ロボットは的確に状況を抽出しその枠内で思考して行動選択を行う必要があるが,ロボットの環境が有限の記号で記述されたとしても, 一般的にはその組み合わせは爆発的に増加してしまうため, そのうちどれを選択するか決めるためには, 膨大な時間がかかってしまうという問題である. 例えば''ドアを閉める''という行動を行う場合でも, ドア種類は無尽蔵にあり, 閉める方法も押したり引いたり,スライドさせたりと開ける方法にも種類があり, またもしドアノブがついていれば今度はドアノブの種類がたくさんあり, 鍵付きの場合は解錠しなければならないし...などなど組合わせは爆発してしまう. フレーム問題については, 何らかの方法で組合わせ爆発を起こさないように, 状況や環境に制約を与えないと, この困難を回避することはできない.
私たちも日常的に同様の問題に直面しており, なにかを決断を下さねばならない場合, どの洋服を着るか, 蕎麦にするか寿司にするか, などなどの決定に膨大な時間がかかる場合がある. そうした場合を考えてみると, 例えば昼食どきなどに何を食べるかを迷う場合,「軽く蕎麦でもいいけどもう少しお腹にたまるものがいい, でもお刺身も食べたい, けど,天ぷらでもいいけど, 汁物もとりたいし,...」と選択の候補や組合わせが膨大となり, 優柔不断という名のフレーム問題に直面し計算が遅滞することがある.
フレーム問題は計算機で知能を創ろうと人工知能の研究をはじめてみて, はじめてみえてきた問題である. 同じ問題を人間の側でも直面しており, それをあまり意識しないままに計算して解きながら日々生活しているのであるが, 外側に計算を取り出して計算機にさせてみて, はじめてそのような難問が存在していることを認識したのである.
だが, 私たちは生活に支障をきたすほどにフレーム問題で悩むことはあまりない.例えば, 昼食時間は限られているし, 移動距離が長くなると帰る時間もあるし,と時間と空間の制約を考慮し, 「昨日は蕎麦だったから今日は天ぷらにしよう」のように探索空間を狭めていってフレーム問題を解決していく. だが, どんなフレーム問題でも簡単に解いてしまうわけではなく, 例えば,''会社を辞めて全く違う仕事をはじめるか否か'', ``結婚するか否か''のような難問の場合には, 探索空間をうまく狭めることができず, 計算は大いに遅滞してしまう場合がある. そうした場合には行動選択ができず, やがて環境が変動して選択肢が限られていくことにより, いわば環境依存で選択をしていく場合も多い.
人工知能におけるフレーム問題も同様で, 一般的にどんなフレーム問題も解決する方法については未だ人工知能の挑戦の一つである. 一方で, 人工知能のチェスや将棋のように特定の問題に特化させた場合には, フレーム問題を回避してかつプロの棋士に負けないぐらいの人工知能を実現できている. 一般には, 指し方は組合わせ爆発を起こして膨大となるが, 盤面をうまく評価したり, 過去の類似した棋符を検索し指し手を絞るなど, 探索空間に制約を与えることによりこの問題を解決している.
組合わせ爆発と自然計算系
こうしたフレーム問題を解く能力は人間のみならず自然一般に存在していると考 えられる. 行動選択に自由度があるのは人間や動植物のみならず, 物質のレベル でも行動選択には自由度がある.
あらゆるスケールにおいて、相互作用が生じているわけであるが、そのうち、現 存している構成物と相互作用とは地球上で実現可能で、それなりに存続が可能な 組み合わせのみが選択され残ってきたことになる. 自然系では各々の物質は自ら の物性により不可避な相互作用を行っているが, 相互作用の''相手''は''熱ゆらぎ'', ``紫外線''など構造を壊したり, 不安定化させたりする仕組みにより際限なく与え続けられる. そして、その中からある程度関係を維持することができる相互作用だけが残ることになる.
このフレーム問題とは人間のみならず自然系一般に存在している問題とも考えることができる. 物質を構成している分子はその動きがすべて決定されているわけではなく, ``ある程度の選択の自由度''を有するため, フレーム問題が生ずる可能性がある. 例えば, 森山はダンゴムシを''追いつめる''ことによりどう行動選択をしたらよいか''途方に暮れる''状態になることを示している
自然言語処理
ノームチョムスキーは「自然言語には全言語 に共通した文法, ユニバーサル グラマー(普遍文法), が潜んでいる」と仮説を提唱し, 自然言語を構文論と意味論に分けて論じ, 独自の文法理論(生成文法理論)展開した. チョムスキーはそれまでの言語学の常識を覆し, それまでフィールドワークにより採集した言語の分析に依っていた文法学について, 数学的に文法を抽象化し, 文法の能力を, その文法が生成可能な文章の性質として数学的に厳密に特徴づけることに成功する(形式言語理論).
このチョムスキーの示した新たな地平は, 20世紀の現代物理学(素粒子論)の成功を横目に, 言語学の自然科学化, を悲願としてきた言語学界に大きな影響を与えることになる. ちろんチョムスキーの言語理論の背景には、構造主義哲学とその”立役者”の1人である言語学者、フェルナンドソシュールの言語理論があったわけであるがその詳細は類書に譲る.
言語学とは長い歴史と幅広い研究分野からなる伝統ある研究分野であるが, チョムスキーの登場により, 当時の言語学界は”生成文法研究者以外は言語学者に非ず”とばかりに、チョムスキーの文法理論で塗りつぶされてしまうのである(これによく似た状況は、20世紀以降、21世紀現在も続いている”分子生物学者以外は生物学者に非ず”との生物学をめぐる状況に類似している.
一方, 言語学や, その背景にあった構造主義哲学がチョムスキーの''ブーム''で沸き立っていた頃, チョムスキーの活躍していた米国は当時のソビエト社会主義連合国連邦(ソ連、その後、現在のロシア等に分割された)との冷戦時代にあった. そして膨大なロシア語の資料を英語に翻訳する必要に迫られていた.
こうした状況の中, 米国政府が巨費を投じて推進した研究プロジェクトこそ自然言語処理であった. 計算機によるロシア語の自動翻訳が目論まれたのである.チョムスキーの切り開いた構文論は威力を発揮し, 高速に文章の構文を解析するアルゴリズムなどの統語論の研究が進められていった.
だが, 研究開発が進むうちに, プロジェクトの命運を左右する深刻な問題が次第に姿を現してくる. それは、チョムスキーの熱狂から時間を経た後になって振り返ってみると「なぜ、気づかなかったのか?」と不思議に感じるような問題, ”自然言語の意味論”である.
チョムスキーの成功は「自然言語の統語論」という, 広大な言語学における1分野でのことである. 統語論のみが言語学ではないことは当時も多くの研究者が認識していたし, 意味処理が必要であることも認識されていた. だが, 意味論については「まず、統語解析を行い, その後に”辞書”をひいて意味を与えればよい」程度に考えられていた. この自然言語処理のアルゴリズムは, 私たちが外国語を読み解く場合などに''日常的に行っていること''に即したアルゴリズムであり自然に受け入れられていた.
しかし, 例えば「にわにはにわがある」を言語処理しようとすると, 「にわに はにわ がある」(庭に埴輪がある)とも「にわには にわ がある」(庭には庭がある)とも意味解釈ができてしまう.
また,「Time flies lIke an arrow 」は Time / flies / like / an arrow(時間は矢のように飛んでいく)とも, Time flies / like / an arrow (時蝿は矢を好む)とも意味解釈ができてしまう. そして、どの”意味”として解釈するかによって, 構文解析の仕方も変わってしまう.
こうして, 自然言語処理の研究がすすむにつれ, 統語解析においても意味処理が重要であることが示されるようになり,「構文解析 意味処理」とのアルゴリズムのデザインは変更を余儀なくされていく. そして, 解析した構文に意味を与えることは, 当時の研究者が予見した以上に困難であることも判明してくる. そして, 自然言語処理の研究は迷走をはじめる. ``さまざまな改善案''が提案され, その改善案が新たな問題を生み出していく. この意味処理の問題は,それから半世紀を過ぎた21世紀の現在に至るまで直接的には解決されず, 統計的な手法を用いて間接的にその解決が試みられている.
また, チョムスキーの形式言語理論も, 言語学として(計算機を用いずに)実際の言語に適用していくにあたって様々な問題が生じ, その”応急処置”に追われるようになっていく. こうして, 自然言語処理をめぐる状況は, あたかも''水道管ゲーム''のように「ふさいでもふさいでも, いたるところから''水漏れ''が止まらない」状態となり, 事態は混迷を深めていくことになる.
そして1966年, 米国科学アカデミーの専門委員会(Automatic Language Processing Advisory Committee, ALPAC)は, ``これまでの機械翻訳研究の延長線上には未来はない、機械翻訳の実現のためには計算言語学などの基礎的な研究を行うべきである''と結論し, 機械翻訳研究に対する研究資金の打ち切りを勧告することになる. そして, このALPAC報告書は米国のみならず, カナダ、フランスを除く, 世界各国に影響を与え, 自然言語処理は長い冬の時代を迎えることになる.ちなみに, その後の自然言語処理研究は言語の運用/用例に目が向けられ(コーパス), 統計処理とを組み合わせることにより新たな方向へ発展していくことになる.
この「自然言語処理の栄光と受難の歴史」は単なる1つの研究分野の変遷を現しているのではない. この歴史はチョムスキーをはじめとする数多の優れた研究者達をしても, 予め''指し示す''ことができなかった問題を, 思考のメディアとしての計算を用いることにより私たちに気づかせて''くれたのである.
自然言語処理研究の第一義的な目的は純然たる''工学''である. だが, ここで用いられた「計算」は, ファインマンも指摘するように, それまで明示的になっていなかった, 言語のもつさまざまな本質\footnote{例えば、言語処理における創発現象. 当時は''創発''という概念は未だなかったが, 現在でも大苦戦している意味処理の本質にあるのは言語における意味の創発現象である} を''あぶり出して''(認識させる)いったのである.
自然言語処理の研究開発では''自然言語の本質を認識しよう''としていたわけではなかったが, 計算という思考のメディアを用いて自然言語に対したことにより,はからずも'' 自然言語の本質を明らかにしてしまった''のである。
新型コロナウィルスのふるまい(感染・流行など)をアルゴリズム的に考察せよ.考察は,
i) まずモデルを考える(拝借する)
ii) モデルの振る舞いをアルゴリズム的に分析する
iii) ii)から一般的な知見を抽出する(*チャレンジ問題)
例)
・感染症の数理モデルではSIRモデルがよく知られているが,SIRモデルの振る舞いをアルゴリズム的に考察する.
・感染症の伝搬をアルゴリズム的に考察する.
To:suzuki.yasuhiro@f.mbox.nagoya-u.ac.jp
subject: 複雑系科学演習2,学籍番号,氏名
添付ファイルで提出
締め切り 12月11日(金)午後5時(30点満点:1日の提出遅れ(17時を基準)で5点づつ減点)