鈴木泰博
南方熊楠(1867-1941)は博物学者と称されることが多い. その研究テーマ は人文科学, 文化人類学, 天文学, 生物学, 細菌学ほか多岐にわたり, その成果 は Nature 誌などに数多く発表された(Nature 誌だけで 51 件におよぶ)1). 熊楠は当時の仏教界での高僧, 土宣法竜との往復書簡のなかで, 仏教の思想 を用いた独自の科学論・科学哲学を展開している.だがその理解に仏教的な 予備知識は無用である.彼の科学論の理解に必要な仏教用語は胎蔵界(精神・ 智慧),金剛界(物質・物性)そして大日如来(宗教的な意味は一切なし.た だ全知な存在という意)でこと足りる.
ここに一言す.不思議ということあり.事不思議あり.物不思議あ り.心不思議あり.理不思議あり.大日如来の大不思議あり.予は,今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ,その順序だけをざっと立てならべ得たることと思う(人は理由とか原理とかいう.しかし 実際は原理にあらず.不思議を解剖して現象団とせしまでなり. [...]. 心不思議は心理学というものあれど,これは脳とか感覚諸器とかを 離れず研究中ゆえ,物不思議をはなれず.したがって,心ばかりの 不思議の学というもの今はなし,またはいまだなし.
彼は全知な大日如来に対し,私たちを含む自然系一般は全知ではないとする. 私たちからすると,自分自身を含め自然は不思議に満ちているわけだが,彼 はその不思議を「事」,「物」,「心」,「理」に分類する.
ここで注意が必要なのは,熊楠が不思議を一般的な意味で用いていない点 である.辞書によれば不思議とは“人の理解を超えていること?) ”となるが, 熊楠での“ 不思議 ”の意味とは“ 人がやがて理解できること.その可能性があ ること”である.よっていずれの不思議も理解可能で,大日如来の大不思議も 理解できる可能性があるとしている.つまり,私たちは,現在こそ全知でな いが,全知なる大日如来に対して全知になれない存在(不可知)でなく,い ずれは全知になれる可能性があるとしている 2).
仏教では「すべての人々が仏」である.ここが,ライプニッツのキリスト教世界と決定的に異なる点である.
「でも,私たちは全知ではない!」
それは”修行が足りない”から仏教はとするのだ.本来は私たちは全知全能の仏なのであるが,現在そうなっていないのは「修行が足りない」からで,修行を重ねていくと仏になれる.これが仏教の考え方である.たとえば,野球選手のイチローは神のような存在で100年に1度のような選手である.(これは,たとえばなしですが)仏教は「野球をやっている全員がイチローである」と,それは精神論じゃなくて,実際にそうである!とする.
たとえば,私が一念発起して野球をはじめたとする.野球経験者ではない私はイチローには程遠い.でも原理的には「私は,修行(時間)を重ねれば,イチローになれる」(なんども生まれ変わらないといかんだろうね).とするのが仏教の立場である.
修行なので..いろんな試行錯誤とか基礎練習などを経て,時間とともに自分の状態を変化させていく,ことになる.その,状態の時間変化,が「計算」であるとする(再び,次回以降の回でもう少しフォーマルに定義します).
閑話休題.
ここで「物」は私たちが日常的に“ 物 ”に分類する物事一般であり,「心」 は心理学が扱うような心を含む,「物」への作用一般をさす.「事」とはいわば 「心」の可視化方法であり,「心」を「物」に作用させて何らかの動き・行動と して可視化させることが「事」である(「心が物に接して作用を現出するこ と 」 ) .「 理 」 と は “ こ と わ り ” の こ と で , い わ ば 世 界 を か た ち づ く る 理 ( こ と わ り)をさす.また,全知の大日如来の世界を不思議の外にある不思議(“ 大+不思議 ”)として分けている.
これら諸不思議は,不思議と称するものの,大いに大日如来の大不 思議と異にして,法則だに立たんには,必ず人智にて知りうるもの と思考す.この世間宇宙は,天は理なりといえるごとく(理はすじ みち),[...] いずれの方よりも事理が透徹して,この宇宙を成す.その数無尽なり.故にどこ一つとりても,それを敷衍追求するときは, いかなることをも見出し,いかなることをもなしうるようになって おる.
熊楠は世界は理により構成されており,科学的発見とは発見ではなくて,あらかじめそこに存在していた物事をみつけたに過ぎないことになる.
発見というは,数理を応用して,または tact にうまく行きあたりて, 天地間にあるものを,あるながら,あると知るに外ならず.蟻が室 内を巡歴して砂糖に行きあたり,食えるものと知るに外ならず.蟻 の力にて室内になき砂糖を現出するにも,今まで毒物なりし砂糖を 甘味のものに化するにもあらず.
この立場は,熊楠のさまざまな経験から至った境地である.この境地を科学 哲学では科学的実在論とよぶ?) .
無心物,つまり「物」のみの世界では「石が落ちて瓶に当たれば割れる」よ うに因果ははっきりしている.一方で「心」の世界では,心のなかで「善いこ と」や「悪いこと」を思ったからといって,そのことによる因果ははっきり しない.だが「心」の世界での因果とは「心」が「物」と接して作用(「事」) を生じることで可視化できると彼は考えた.
今日小生善を思いたればとて,別に思うだけでの報を思うものにあ らず.また悪念を起こせりとて,別に後日これがため悪事を念うと いうこともなく [...]. ただ心界に感ずる因果応報というは,心界が物 界に接して作用(事)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと 思う.すなわち小生が人の物をぬすむは,小生の心が手(物)をつ かいて物(物)をぬすむという(事)作用を現出するなり.その応 報としては,あるいは小生が人(小生よりみれば物)でどやされる こと等もあるべし.この物心両界が事を結成してのち始めてその果 を心に感じ,したがってその感じがまた後々の事(心が物に接して作用を現出すること)の因となるなり.
た と え ば “ 人 の も の を 盗 む ” こ と は ,「 心 」 が 手 ( 「 物 」 ) を つ か っ て , 物 ( 「 物 」 ) を盗むという作用(「事」)である.この「心」による因果に対して,怒鳴ら れるなどの応報がある.そして,この応報が後々の事(以降は盗む(「事」) を生じさせなくなるなど)を生じさせる原因となる.「心」のみの世界では因 果応報はよくわからないが,「物」と相互作用して「事」を生じることにより「心」の世界の因果応報も可視化することができる.彼が興味があったのは 「物」界と「心」界に共通する大原則を「事」のなかから見出すことであり, それを“ 事の学 ”とよんでいる.
小生の事の学というは,心界と物界が相接して,日常あらわる事と いう事も [...] 大綱領だけは分かり得るべきものと思うなり.電気が 光を放ち,光が熱を与うるごときは物ばかりのはたらきなり(物理 学的).今,心がその望欲をもて手をつかい物を動かし,火を焚い て体を暖むるごときより,石を築いて長城となし,木をけずりて大 堂を建つるごときは,心界と物界が雑り初めて生じるはたらきなり. 電気,光等の心なきものがするはたらきとは異なり,この心界が物 界とまじわりて生ずる事 [...] という事にはそれぞれ因果があること と知らる.その事の条理を知りたきことなり.
たとえば、城郭の石垣は石(「物」)へ人間(「心」:穴太衆・石工衆などと称さ れる石組みの専門家)が作用することで強固な石垣となる.石垣に類する現 象は川が氾濫して複数の石が押し流されて一時的に折り重なって生じる「力」 により生じる石組みもあれば,この一時的に生じた石組みが比較的長い時間 をかけて物理的な作用(「力」の状態変化による最適化としての「心」)をう けて状態変化していき,やがて比較的強固な“ 自然ダム ”での石垣のような 石組み(「事」)となる場合もある.
これらは石(「物」)に対して作用の違いであり,その作用の違いが同じ 「物」を異なる「物」へと変化させている.“ 事の学 ”とは“ 作用 ”に着目して 「物」界と「心」界に共通する作用(「心」)を見出すことを目的としている.
今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分),ただ箇々のこ の心この物について論究するばかりなり.小生はなんぞ心と物とが まじわりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によって究め,心 界と物界とはいかにして相異に,いかにして相同じきところあるか を知りたきなり.
課題:熊楠の「物」,「心」,「事」で構成されているシステム(上述した「石垣」のような)を3つあげ,各々のシステムでの「物」,「心」,「事」に相当するものはなにかを述べよ.