複雑系計算特論1および2 第3回

鈴木泰博

概要:前回の課題の解説が結構な分量になっている.さて,それを踏まえて,計算について再考するための思想的基盤として南方熊楠の科学論をもちいることにする.今回は南方熊楠の

前回の課題について :難しい課題だが,頑張ってチャレンジしている力作も見受けられた.チャレンジ課題については,かなりの難問であるが1名,かなりポイントをついているものがあった.

前回の課題:論理の計算について,以下のキーワードをもちいてまとめなさい.

こちらを選択した回答が多かった.概説すると...記号・論理の計算の始祖はルルのアルスコンビナトリアに遡れることだ.ルルの功績は「世界を記号化する」という(特に強い人工知能)人工知能の根底にある(あった)流れの源流がルルになる(ルルは,とても興味ふかい人物であるが,激しく脱線してしまうので,やめる).アルス・コンビナトリアは,後年に”トンデモ学問”として,ほとんどネタみたいにバカにされて無視されていく..そこに「Aha!」となったのが,天才という言葉では足りないぐらいの超知性,若いライプニッツだった.

ライプニッツは「神学的に見るべきものはない,が,こりゃすげー!」と大興奮する.(いろいろあって)ライプニッツは「デジタル的なものの見方には極めて懐疑的(デカルトを批判)」だったのだが,アルスコンビナトリアをみて「あっ!これで論理の計算ができる!!!!!!!!!」と超興奮する.

ふつーのひとは「なんで?」と思うのだが,彼は,アルスコンビナトリアでの概念を素数にすれば,素数の計算で論理の計算ができる!ことに着想したわけだ.

超天才 ライプニッツは,アルスコンビナトリアをみて「これでフワリズミーを始祖とする「10進数による数の計算」と「素数による論理の計算」を,融合することができる!」と直感し...とても1人とはおもえない超人ライプニッツは,データベースの構築(図書館学のはじまりは彼,百科事典のはじまりも彼)と計算機の構築を行う(10進数計算機,2進数計算機.10進数ー2進数の自動変換もすべて彼がつくった).

で,彼は時代から数百年も先に生きていたので..「だーれも,ついてこない」

彼の死後..しばらく,人類は彼に追いつけない....

20世紀になって,ゲーデルがゲーデル・ナンバリングを着想して,対角線論法をつかって,不完全性定理を証明するので「ゲーデール すげー!」と思うのだが..実はゲーデルはライプニッツのラテン語の原稿を翻訳していた(伝聞).なので,ゲーデルナンバリングの源流は...ライプニッツなのだ(ライプニッツ...無双)

*ここから,多くの回答と同じなので,不完全性定理から..第10問題までは省略*

一つ注意:不完全性定理,チャーチ・チューリングの提唱は「人間の知性の限界を示したものではありません」.文献や論文でもみかける,よくある誤解,なんで注意するように.

*省略おわり*

ブラウワーは...なかなかに興味ふかい人物で傑出した数学者(トポロジーでも不動点定理で有名など)であるが,えらいこと脱線するのでやめる.

実は..ブラウワーの直観主義(排中律は使わない, ハイティンク代数,NKと関係してくるのだが..)は,ヒルベルと激しく対立する.ヒルベルトは「無限なんて使っていいじゃん.便利だし」ってノリで数学をやっているわけだが,神秘主義(調べてください,オカルトのことではありません)のブラウワーは「それは,神への冒涜である!」と激しくヒルベルを批判する...

この図式は「時間と空間」についてのニュートンとライプニッツとの関係とおなじなのである..ニュートンは「時間と空間を仮定しちゃえば,便利だからいいじゃん!」とどんどん使って「信じないひとは,信じなくてよい」という態度..これを許せないのがライプニッツで「人間が手前勝手にそんなものをつくると,あとで,それを証明しなければならなくなるぞ!」と批判する.ライプニッツはある意味,正しくて..彼は相対性理論みたいなもんが出てくることになるぞ,と予見していたわけだ.

で,計算の立場では..こっからちょっとショボくなるが...

直観主義数学は排中律を使わない,なので,実はプログラムと同じことなのである.計算的にはカーリーとハワードの対応というものが重要で,これをつかうと自然演繹はそのままプログラムに変換できる.これは,1970年代に発達して(ほぼ完了した)プログラムの証明で応用された...

でも,しょんだけ..あの人間の存在を軸とした,知の巨人たちの激闘があったのだが...なんか,1970年以降はもう歴史から消えている.これは科学としてのコンピュータサイエンスがまだ未熟だからでしょうな.必ずや,この先人たちの知恵の結晶が,人類におおきなものをもたらすと信じてる.

こちらのシナリオを選択したひとはそれほど多くなかった..また,ポイントがちょっとずれていた.フレーゲの述語論理からはじつは三叉路みたいになっていて,論理の計算の科学史は

  1. 数学基礎論(上のシナリオと合流)
  2. 数理論理学(様相論理など)...ここに着目しているひとはいなかった
  3. 論理プログラミング... ここに行くようにキーワードをつくったが..誰もここに行けなかった orz..

の3つに分かれる.

第1階 述語論理から,エルブラン空間,導出原理へのくだりは,美しすぎてうっとりする...最近は,シーケント計算が花盛りで,まぁ派手だし,見栄えもいいし,パズル好きなかたには答えられない楽しさがある(ほとんど詰将棋みたいなもんだ).それについて解説するには,命題論理からはじめていかないといけないので,脱線というレベルではなくなるので,やめる.で,提示したキーワードではそのあたりを「さらり」とパスできるようになっていたんですよ.それがHorn Logicであって,これが計算化のためには,大変に便利,なものである.

となるのだ.Prologとは..ご存知ないかもしれないが..実はプログラミング言語のことである.

Prologとはね,述語論理を計算できる,計算系なんですよ!

ま,ここまで読んでも 「ーー;..だから?」ってかんじかもしれませんが..論理小僧にとっては,でら興奮するものであった.

で,Prologは実は日本が,一瞬だけ,世界の人工知能をリードした栄光の時代を支えたものだ.それが「第五世代コンピュータ」プロジェクトである.日本はPrologを基盤とした人工知能のプロジェクトを行い,世界をリードしたことがあったのだ... orz.. Prologの専用機などもあって,そりゃもう..輝かしいもんだった..

いまではPrologをつかっている商用の処理系はないだろうな..

述語論理を計算化していく着想と理論体系はすばらしく美しく.それに触れた若者の多くは「論理小僧」になったもんだ(自分もそうなりました).エルブランはアルプスを登山中に滑落してなくなっている.

*あと,マニアックすぎるので出題しなかったが,Prologとその処理系以前にも,じつは,アルスコンビナトリアから(数百年後からだが)人類は論理計算器(ほとんどが自動三段論法計算機)をつくってきている.これは科学史からほぼ完全に忘れさられている部分だが..じつはとっても面白い.びっくりするような計算器がいろいろある

「論理の計算」についての総括(今回はこれで終わりでもいいような気がしてきたが..まだ内容にも入っていない orz.. )

ルルスからはじまり,ライプニッツが数と論理の計算を融合して,チューリングを経由してできたのが,現在使われている電子計算機である.ルルスは人工知能のはじまりでもあって,そこからの一つの流れはフレーゲで分岐して,エルブランを経由してPrologとなり(そして現在のところはほぼ途絶えた).

チャレンジ問題 「ライプニッツの哲学はなぜ(自然)計算の基盤につかえないか?」

ライプニッツの哲学の基盤とは「アナログ的世界観」である(と私は主張している).ちらりと触れたが,ライプニッツはモノゴトを1,0でとらえる,デカルト流の世界観を批判してた.前回だったかの課題でデカルトのコギト(我思うゆえに我あり)とはつまり背理法である.ライプニッツは「背理法は証明になってない!」と批判する.この立場がブラウワーの直観主義(排中律・二重否定の排除)と同じなのである.

背理法が使えない?じゃあどうするの?

背理法が使えないと,いろいろ不便だ(たとえば高校で習う無理数の証明とか).ライプニッツは世の中は白, 黒みたいなもんじゃなくて,「白でないなら,灰色かもしれないやんか!」と主張する.この立場はかっこいいんだけど..そこで彼が持ち出してくるのが「計算」である.

彼は言っていますよ,もし利害衝突して紛争になったら喧嘩をするんじゃなくて,さあ計算をしよう!と.

なので,彼は頭の先から足の先まで「計算主義」なわけだ(計算は数学的には”代数”のことだ,彼の微積分の記号が「あんなかんじ」なのは,記号処理として微積分ができるようになっているためだ).

ならば,ライプニッツの哲学をつかえばいい!と思う..私も思った.ライプニッツをいろいろ勉強して,そのすさまじさに「すげー」を連発しながら,没頭して心酔していった..が,あるとき気づいた.

わたしは人間である

ことに...orz...

ライプニッツの哲学は「神」の立場である.そこに人は入っていない.それは無理からぬことで,人は神とは直接につながることは,宗教的な理由で,厳禁である.人と神との間には「教会」があるわけで,教会とばし,をすると「異端」として,えらい目にあうのだ(スピノザのように.)

なので,ライプニッツの計算の哲学とは,”神による”計算の哲学,なのである...

これは,どうしようもなくて,彼もなんとか人を忍び込ませようと頑張っているフシがあるのだか,かなり苦しい.やはり,どうしても,神による計算,に人を忍び込ませることができないのだ.

だいたい,神による計算,は原理的にもかなり厳しい.神は全知である.なので,全部知っていることが前提だ.全知なので,そもそも「うーん,どうしよう」と計算する必要がないのだ.たとえ,ナビエ・ストークス方程式だって解析解をもっていて,流れの速度・圧力場だってたちどころに描ける.ミレニアム問題として懸賞金をかける必要もないし,数値計算を行う必要もない..だって全知だから.

とすると..いったい神はなにを計算するのか????

ここに至って,完全に手詰まってしまう.実は,彼の哲学には「アルゴリズム」に相当するものはないのだ.(ライプニッツの哲学を少し知っているひとは)たとえば予定調和の概念を知っているだろう.人間の立場からすると,予定調和は人工知能でのフレーム問題に直面してしまう.

わたしはずっと不思議だった..普遍算術にしても組合せ爆発がおきて京通りとかになってしまう.ライプニッツはその組み合わせが爆発するところに興奮していて,組み合わせを計算しているメモなどが残されている.

だが...計算の立場の私,人間からすると「どうやって京通りから答をみつけるんやろ?それってNP完全かもしれないし,場合によっては,決定問題かもしれないやんか...」

でも,やがて気づいた「神は京通りからオーダー1(時間計算量)で答を見つけられる」orz..

こりゃ..ライプニッツの計算の哲学をベースにしていては,自然計算の基盤はつくれない,ことを痛感したのである.私たち人間は自然については問うこともできないぐらい(前回の課題)不可知である.

かなり長い時間とエネルギーをつかってライプニッツの哲学を学んだのだが..泣く泣く,ライプニッツから去ることになった(原稿もお蔵入りとなった...号泣..だが仕方ない)

南方熊楠の科学論

南方熊楠(1867-1941)は博物学者と称されることが多い. その研究テーマ は人文科学, 文化人類学, 天文学, 生物学, 細菌学ほか多岐にわたり, その成果 は Nature 誌などに数多く発表された(Nature 誌だけで 51 件におよぶ)1). 熊楠は当時の仏教界での高僧, 土宣法竜との往復書簡のなかで, 仏教の思想 を用いた独自の科学論・科学哲学を展開している.だがその理解に仏教的な 予備知識は無用である.彼の科学論の理解に必要な仏教用語は胎蔵界(精神・ 智慧),金剛界(物質・物性)そして大日如来(宗教的な意味は一切なし.た だ全知な存在という意)でこと足りる.

ここに一言す.不思議ということあり.事不思議あり.物不思議あ り.心不思議あり.理不思議あり.大日如来の大不思議あり.予は,今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ,その順序だけをざっと立てならべ得たることと思う(人は理由とか原理とかいう.しかし 実際は原理にあらず.不思議を解剖して現象団とせしまでなり. [...]. 心不思議は心理学というものあれど,これは脳とか感覚諸器とかを 離れず研究中ゆえ,物不思議をはなれず.したがって,心ばかりの 不思議の学というもの今はなし,またはいまだなし.

彼は全知な大日如来に対し,私たちを含む自然系一般は全知ではないとする. 私たちからすると,自分自身を含め自然は不思議に満ちているわけだが,彼 はその不思議を「事」,「物」,「心」,「理」に分類する.

ここで注意が必要なのは,熊楠が不思議を一般的な意味で用いていない点 である.辞書によれば不思議とは“人の理解を超えていること?) ”となるが, 熊楠での“ 不思議 ”の意味とは“ 人がやがて理解できること.その可能性があ ること”である.よっていずれの不思議も理解可能で,大日如来の大不思議も 理解できる可能性があるとしている.つまり,私たちは,現在こそ全知でな いが,全知なる大日如来に対して全知になれない存在(不可知)でなく,い ずれは全知になれる可能性があるとしている 2).

仏教では「すべての人々が仏」である.ここが,ライプニッツのキリスト教世界と決定的に異なる点である

「でも,私たちは全知ではない!」

それは”修行が足りない”から仏教はとするのだ.本来は私たちは全知全能の仏なのであるが,現在そうなっていないのは「修行が足りない」からで,修行を重ねていくと仏になれる.これが仏教の考え方である.たとえば,野球選手のイチローは神のような存在で100年に1度のような選手である.(これは,たとえばなしですが)仏教は「野球をやっている全員がイチローである」と,それは精神論じゃなくて,実際にそうである!とする.

たとえば,私が一念発起して野球をはじめたとする.野球経験者ではない私はイチローには程遠い.でも原理的には「私は,修行(時間)を重ねれば,イチローになれる」(なんども生まれ変わらないといかんだろうね).とするのが仏教の立場である.

修行なので..いろんな試行錯誤とか基礎練習などを経て,時間とともに自分の状態を変化させていく,ことになる.その,状態の時間変化,が「計算」であるとする(再び,次回以降の回でもう少しフォーマルに定義します).

閑話休題.

ここで「物」は私たちが日常的に“ 物 ”に分類する物事一般であり,「心」 は心理学が扱うような心を含む,「物」への作用一般をさす.「事」とはいわば 「心」の可視化方法であり,「心」を「物」に作用させて何らかの動き・行動と して可視化させることが「事」である(「心が物に接して作用を現出するこ と 」 ) .「 理 」 と は “ こ と わ り ” の こ と で , い わ ば 世 界 を か た ち づ く る 理 ( こ と わ り)をさす.また,全知の大日如来の世界を不思議の外にある不思議(“ 大+不思議 ”)として分けている.

これら諸不思議は,不思議と称するものの,大いに大日如来の大不 思議と異にして,法則だに立たんには,必ず人智にて知りうるもの と思考す.この世間宇宙は,天は理なりといえるごとく(理はすじ みち),[...] いずれの方よりも事理が透徹して,この宇宙を成す.その数無尽なり.故にどこ一つとりても,それを敷衍追求するときは, いかなることをも見出し,いかなることをもなしうるようになって おる.

熊楠は世界は理により構成されており,科学的発見とは発見ではなくて,あらかじめそこに存在していた物事をみつけたに過ぎないことになる.

発見というは,数理を応用して,または tact にうまく行きあたりて, 天地間にあるものを,あるながら,あると知るに外ならず.蟻が室 内を巡歴して砂糖に行きあたり,食えるものと知るに外ならず.蟻 の力にて室内になき砂糖を現出するにも,今まで毒物なりし砂糖を 甘味のものに化するにもあらず.

この立場は,熊楠のさまざまな経験から至った境地である.この境地を科学 哲学では科学的実在論とよぶ?) .

無心物,つまり「物」のみの世界では「石が落ちて瓶に当たれば割れる」よ うに因果ははっきりしている.一方で「心」の世界では,心のなかで「善いこ と」や「悪いこと」を思ったからといって,そのことによる因果ははっきり しない.だが「心」の世界での因果とは「心」が「物」と接して作用(「事」) を生じることで可視化できると彼は考えた.

今日小生善を思いたればとて,別に思うだけでの報を思うものにあ らず.また悪念を起こせりとて,別に後日これがため悪事を念うと いうこともなく [...]. ただ心界に感ずる因果応報というは,心界が物 界に接して作用(事)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと 思う.すなわち小生が人の物をぬすむは,小生の心が手(物)をつ かいて物(物)をぬすむという(事)作用を現出するなり.その応 報としては,あるいは小生が人(小生よりみれば物)でどやされる こと等もあるべし.この物心両界が事を結成してのち始めてその果 を心に感じ,したがってその感じがまた後々の事(心が物に接して作用を現出すること)の因となるなり.

た と え ば “ 人 の も の を 盗 む ” こ と は ,「 心 」 が 手 ( 「 物 」 ) を つ か っ て , 物 ( 「 物 」 ) を盗むという作用(「事」)である.この「心」による因果に対して,怒鳴ら れるなどの応報がある.そして,この応報が後々の事(以降は盗む(「事」) を生じさせなくなるなど)を生じさせる原因となる.「心」のみの世界では因 果応報はよくわからないが,「物」と相互作用して「事」を生じることにより「心」の世界の因果応報も可視化することができる.彼が興味があったのは 「物」界と「心」界に共通する大原則を「事」のなかから見出すことであり, それを“ 事の学 ”とよんでいる.

小生の事の学というは,心界と物界が相接して,日常あらわる事と いう事も [...] 大綱領だけは分かり得るべきものと思うなり.電気が 光を放ち,光が熱を与うるごときは物ばかりのはたらきなり(物理 学的).今,心がその望欲をもて手をつかい物を動かし,火を焚い て体を暖むるごときより,石を築いて長城となし,木をけずりて大 堂を建つるごときは,心界と物界が雑り初めて生じるはたらきなり. 電気,光等の心なきものがするはたらきとは異なり,この心界が物 界とまじわりて生ずる事 [...] という事にはそれぞれ因果があること と知らる.その事の条理を知りたきことなり.

たとえば、城郭の石垣は石(「物」)へ人間(「心」:穴太衆・石工衆などと称さ れる石組みの専門家)が作用することで強固な石垣となる.石垣に類する現 象は川が氾濫して複数の石が押し流されて一時的に折り重なって生じる「力」 により生じる石組みもあれば,この一時的に生じた石組みが比較的長い時間 をかけて物理的な作用(「力」の状態変化による最適化としての「心」)をう けて状態変化していき,やがて比較的強固な“ 自然ダム ”での石垣のような 石組み(「事」)となる場合もある.

これらは石(「物」)に対して作用の違いであり,その作用の違いが同じ 「物」を異なる「物」へと変化させている.“ 事の学 ”とは“ 作用 ”に着目して 「物」界と「心」界に共通する作用(「心」)を見出すことを目的としている.

今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分),ただ箇々のこ の心この物について論究するばかりなり.小生はなんぞ心と物とが まじわりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によって究め,心 界と物界とはいかにして相異に,いかにして相同じきところあるか を知りたきなり.


課題:しめきりは来週の水曜日(5/13)の午後5時@NUCTからアップロード:熊楠の「物」,「心」,「事」で構成されているシステム(上述した「石垣」のような)を3つあげ,各々のシステムでの「物」,「心」,「事」に相当するものはなにかを述べよ.