第14回 自然計算系の構築と展開

これまでの議論を踏まえて構築している自然計算系を紹介する.自然系にアルゴリズムと観測系を付与し,自然計算系を構築する.自然系に共通した相互作用のひとつは触覚である.そこで,触覚を介したする自然計算系を構築する.触覚のアルゴリズム記述を行うために提案している「触譜」を“プログラミング言語”,人間を“計算機”とした自然計算系として「人間計算系」の構築とその展開を示す.

自然系にアルゴリズムを与える

自然系にアルゴリズム を実装する場合,自然系と相互作用するためのメディアの選択が重要となる.たとえば,治水を効果的に行うためのメディアの選択としては,お祓いよりも堤防を築くほうが効果的である.水は津波や洪水などの自然現象と人間との共通したメディアで,水を介して人間と自然系は相互作用することができる.よって,治水とは自然計算である.川や海と治水方法のアルゴリズム を介して相互作用し,その結果を観測し治水アルゴリズム を変化させていく.自然計算系を構築する上で,もっとも重要なことは相互作用の選択で,これを誤ると計算系として成立しにくくなる.

たとえば「勉強」も自然計算である.人間に学習のためのアルゴリズム をあたえ,その効果を観測する.この計算系でのメディアは,学習のためのアルゴリズム である.よって学習の効果が上がらない場合,そのアルゴリズム を変更することになる.たとえば,教える順序を変えたり,教科書を変えたりすることがその変更に対応する.

一方で成績があがらない場合に「なぜ,こんな成績しかとれないんだ!」と叱る場合,用いているメディアは学習者の“心”になる.その場合のプログラミングとは学習者の“心”を変化させることになる.

自然系が共有する相互作用,触覚

触覚を介した相互作用とは自然系に共通する統一的な相互作用である.タンパク質などの生体高分子間の相互作用では,糖鎖のような構造をもった高分子間どうしが触れ合って“しっくり”くる結合の仕方を探り合い,その結果,全体として安定的であれば結合するし,そうでなければ結合しない.つまり,高分子間の相互作用では触覚が重要になる.

糖鎖はDNAからタンパク質に翻訳された後に修飾されるため,同じタンパク質であっても糖鎖による修飾,つまり触感の違い,により結合するタンパク質を変化させることができる.たとえば,血液のABO型とは主に赤血球の糖鎖による修飾の違いにより判別される.

また,糖鎖は細胞上にも存在し,細胞間相互作用や,生体内のシグナル伝達系で情報メディアとしての役割を担っている.つまり,分子・細胞間の相互作用は触覚が重要な役割を果たしている.

よりスケールが大きくなって生態系では,先述のように香りによる相互作用が行われているが,生態系では,揮発性の香り情報物質のほかに,不揮発性のコンタクトケミカルとよばれる物質が用いられている.コンタクトケミカルとは植物や昆虫の体表面を被覆している不揮発性の化学物質で,昆虫などの触角で触れることにより,行動を選択するためのさまざまな情報を得ている.つまり,生態系でも触覚相互作用は重要な役割を果たしている.

人間を含む動物間では異種間であってもハグをしたり,グルーミングをしたりする例がみられる.また,積極的にマッサージを依頼するようなことも珍しくない.ハグやマッサージの効果についてはさまざまな研究が行われている(たとえば[te-arte]}).

このように,触覚は分子・細胞から動植物,人間に共通する統一的な相互作用である.そこで,自然計算を自然系に実装するためのメディアとして触覚をもちいる.

触覚の科学の現状

「工学は理学の礎」のうえに成立する場合が多い.触覚の「理学」とは生理学であり,さまざまな触覚受容器(触覚を受容する細胞器)の研究が行われている.これまでに,各々の受容器の応答反応特性が調べられてきた.このような研究は触覚のみならず,他の体性感覚でも行われている.

胎内でもっとも早く形成がはじまる体性感覚が触覚である.他の体性感覚の多くは生まれ落ちてからも発展がつづくが,触覚は胎内でほぼ発展がおわり,赤ちゃんは大人とほぼおなじ触覚をもつ.その一方でもっとも発展が遅れているのが触覚である.音楽と視覚・言語芸術の集大成であるオペラや映画,視覚と嗅覚(香道)が統合された華道,その上に味覚の芸術が加わった茶道である.触覚はいずれにも

関係するが,触覚はいつも脇にあり,触覚が主で他の感覚を従えるようなものはない.敢えてあげるならばマッサージである.マッサージについては紀元前からの記録があるが,数千年の時間と地域を超えてもマッサージはさほど発展していない.たとえば音楽では紀元前の楽譜(聖歌の文字譜)があるが,それから数千年,それぞれの地域で大きく発展している.

触覚の現状を聴覚に喩えると,「蝸牛の構造ばかりに気を取られて,音楽を発展させるのを忘れている」.ようなものである.蝸牛とは内耳にある神経器官で空気振動を音に変換する.聴覚生理学は蝸牛の構造について驚くべき発見を重ねてきた.まぎれもなく音楽は蝸牛の特性に依存するわけだが,いくら蝸牛の構造を解明しても音楽は生まれてこない.触覚は聴覚と類比により議論されてきた.学術的には触覚は聴覚の一分野となっている.だが,触覚には音楽に相当する,時間変化の芸術がまだない.

かつて,音楽はすべて即興演奏だった.やがて中世に楽譜が普及すると音楽を記録し,編集することが可能となった.それまでの即興演奏のみの頃は,演奏家は作曲家を兼ねることになっていたわけだが楽譜によって,作曲のみを行うことが可能となった.さらに活版術が発達し楽譜の出版が可能となると,楽譜は現在のCDやストリーミング音源のような“音楽ソフト”となり,演奏しなくても作曲して楽譜の出版を生業とする職業的な作曲家が成立するようになる.

そして,演奏に長けた演奏家が演奏技術を高め,作曲に長けた作曲家は高度な技術をもつ演奏家に“当て書き\cite{創作時に特定の演奏家の演奏を想定して作曲すること}”をするようになり,音楽は演奏と作曲を両輪として飛躍的に発展した.

音楽に喩えると,触覚の世界はいまだに即興演奏時代である.唯一の触覚の時間の芸術であるマッサージは数千年にわたり世界中で行われてきたが,楽譜のように時間,地域,マッサージの種類を超えて使用されている記譜法は普及してこなかった.よってマッサージを記録・編集・頒布する方法はなかった.

マッサージの有効性については,医聖と称されるヒポクラテスが言及し,エジプト時代の医師の墓石にもマッサージの壁画が描かれるなど,古来から提唱されてきた.ヒポクラテス以降,いわゆる西洋医学は外科術,内科術など分化発展し現代に至っている.一方でマッサージは西洋医学の一分野を成すに至っていない.

マッサージの医療臨床応用の研究は,米国国立衛生研究所の国立補完統合衛生センタ(NCCIH)がリードしてきた.そのほとんどの研究は,単一のマッサージ方法(Sweden式マッサージやあん摩など)を用いて,施術者の手によるマッサージを適用した群と適用しなかった群の比較による臨床研究である.つまり,記譜法についての研究はなく,マッサージの方法にまで踏み込んだ研究は行われていない.よって,マッサージ方法を変化させた場合の実証研究は行うことができなかった.また,人の手により分子や・細胞をマッサージすることはできないため,分子・細胞レベルからのマッサージの作用機序はほとんどは知られていない.

振動によるマッサージは理学療法やリハビリテーション学で研究されてきた.その代表的なもののひとつが全身振動触覚(Whole body vibrations)である.これは低い周波数で全身を振動させるもので,リハビリテーションや理学療法,一部の美容器などで用いられている.だがマッサージから合理的に変換された振動触覚はない.

触譜

触覚をメディアとする自然計算系を構築するためには,触覚の言語,を構築する必要がある.だが触覚一般には時間の概念がまだない.そこで,唯一の時間発展する触覚である,マッサージに着目した.マッサージの種類は無数でさまざまな手技があり,その各々を仔細に盛り込むことはほぼ不可能である.

これは音楽も同様に,さまざまな楽器・技術で演奏される音楽の要素をすべて盛り込むことは不可能である.楽譜は音楽のもつ豊かな要素を捨象し,音の高さの時間変化のみ,にしたことが白眉であった.触譜の創始者で美容家の鈴木理絵子氏は,かつて即興演奏家が行なっていたように,即興的に行なっている

マッサージ を記録するために,特殊な記号,を考案して記録していた(\ref{初期の触譜}). 美容業はシビアで効果がないと顧客は再訪することはない.なので,美容効果の高いマッサージ を繰り返し行うことが事業の生命線であり,その必要から生まれたものが,その後に触譜となる.この特殊な記号から,楽譜誕生前のかつての即興演奏家が想起された.

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鈴木(理)氏はマッサージ についての考察を深め,「マッサージ とは圧力の変化に集約される」ことを経験を通して確信するに至った.この言をもとに考察するに,マッサージ は圧力と速度を時間変化させるもの(指圧など),圧力,速度と接触面積を時間変化させるもの(美容マッサージ やあん摩など)に大別される.

この両者に共通する要素が圧力と速度である.そこで,圧力と速度の時間変化,を記述することとした.そして誕生したものが「触譜, Tactile Score」である\cite{TS}.触譜は触覚を圧力の時間変化のみで記述する.そして,触譜の記述には五線譜を使い,五線譜の真ん中の線を普通の圧力,下行は強い,上行は弱い圧力をあらわす.そして,音符により同一圧力が加えられる長さを記述する.

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触質の触譜による記述

触覚の基礎研究は触感(Tactile Quality)で重要な三要素を見出してきた.それらは,柔らかさ(Softness), 粗さ(Roughness)そして温度である.このうち“柔らかさ”と“粗さ”については触譜で表現することができる.

たとえば誰かをハグする場合,触覚は軟から硬に変化する.一方,たとえば厚い鉄板を押す場合には触覚は硬のまま変化しない.そこで,触譜の上下の変化が大きいものを柔,変化が小さいものを硬と定義する.

よく手入れされた芝生の上を歩くと,どこを歩いても同じ滑らかな触覚を足裏でかんじる.一方で,ところどころ地面が露出したり,芝が伸び放題になっているような,手入れされていない芝生を歩くと,芝生の荒れたかんじを足裏でもかんじる.そこで,同じような硬軟のパターンで構成された触譜を「滑らか」,パターンが複雑な触譜を「粗い」と定義する.

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課題 以下の方法で自然を計算化してみなさい.

  1. 対象とする自然系を選び,コントロール可能なパラメータを1つ選ぶ.ここでのパラメータとはシェパーディングを行なうときのパラメータが相当する.
  2. 1.で選択したパラーメタを段階に離散化する.
  3. 2.で離散化したパラメータをもとに,触譜を参考にしながら,プログラミング言語化しなさい.
  4. 3.で作成した,プログラミング言語,をもちいて,対象とする自然系のプログラミングと,可能ならばシミュレーションを行いなさい.

今回はここまでです.おつかれさまでした.