この地球は宇宙にある物質によって構成されている。もし、これらの物質の物性が全く相互作用しないのであれば地球も何も生じないであろう。だが、実際には物質間での意図しない不可避な相互作用が生じ、その絶え間ない連鎖のうちにこの地球も生命系も存在している。
物質は不可避な相互作用を通して組織化されていってしまう。そうして、自己組織化的に構造がつくられ、それらがさらに組織化されて高度に複雑な系が構成されていく。このプロセスの中では、自ずから、中心となって構造を束ねていくような組織が創出されてきてしまう。このプロセスの外部からみていれば、そのような組織は他の組織を支配しているようにみえるであろう。そうして、このような自己組織化を通し高度に複雑な系が構成されていく。
例えば、生命の起源であれば、原始地球の海に溶け込んだ化学物質間で不可避な相互作用が生じ、化学的な活性のある鉱物の表面上での化学反応等から、やがて自己触媒性のある高分子系が生じ、かかる高分子系などが膜で包まれて細胞となり単細胞生物が生じ、単細胞生物間の相互作用から多細胞生物が生じてくる。このようにして自己組織化が繰り返されることにより、単純な化学反応から、複雑な生命系が誕生してきたとみなすことができるだろう。
この観点からすると、人間を含む生物系は決して突如として地球上に出現したわけではなく、原始地球を構成していた物質間での不可避な相互作用からの相互作用の連鎖から生じてきたことになる。よって、生命系は他の自然の事物から"断絶された特別な存在"ではないことになる。したがって、鉱物や化学物質など他の自然の事物と同様に、自らの物性と相互作用を通して、他の物質を支配していくように、(もちろん支配されてしまう場合もあるだろう) に自己組織化をしていくことになる。
いわば、人間や動植物などの物性のひとつとして"ナイーブな意味での知識"があり、この知識を用いることにより新たに相互作用をつくりだし、他の系を支配していくことができる(植物が"ある種の知識"を基に支配的な相互作用をつくりだす場合の例は後述)。こうした非線形的な相互作用において、そこそこ正確に同様の相互作用を繰り返したり、それらを組み合わせたりするのに''計算''が大きな役割を果たしているとみなすことができるだろう。
ここで"ナイーブな意味での知識"としているのは、知識の有無はそれを観測した側の判断によるからである。例えば、タンパク質同士が相互作用するとき、各々のタンパク質は、人間からみれば、相互に形状を認識して"うまく"はまりこんでいくように"見える"。そして、それらは必要な処理が適切な順序によって実行され、まさに計算されて、機能を有するようになっていく。我々はかかるタンパク質相互作用の研究を行って、そこでの規則と計算の仕方を発見し知識を獲得し、それを用いて薬剤分子などをつくっている。
では、このタンパク質相互作用に関する知識や計算はいったいどこに存在していたのだろうか?この問いについては、いかようにも答えがあり得るだろう。つまり、知識と計算は事物間の関係から相対的に成立するものであり、一片の鉱物やひとしずくの水滴にも知識と計算がある、とも、それらには知識も計算もない、と も言えるのである。
同様のことは計算においてもいえるだろう。"知識"を基にして新たな相互作用を創出していく仕方として、計算とはどのような自然の事物も有している物性のひとつであると。よって計算とは特に人間や動物だけに有する物性で はないとこととなる。
個々人が自然計算が"面白い"と思うか否かは各々の主観によるが、自然計算系の研究は、科学のメインストリームであったとはいえないが、それなりに研究の歴史があり、20世紀から21世紀をまたいでの計算機科学から分子計算への移行や、 関連書籍など、自然計算に興味をもつ研究者は存在し、社会的にも興味がもたれてきている。
自然系には相互作用を介し他の事物を組織化しようとする物性があり、計算はそのための仕方である。我々は計算を用いることにより、本来は不可知で支配することは不可能な自然系を、そのごく一部であるにせよ、自在、かつ、再現可能に操る事が可能になる。そこでは、自然計算により行うことができる操作の内容はともかくとして、"自在に操作ができること"、そのものが、自然系のとしての人間、の物性を満たすために、私たちは自然計算に興味をもつのではないだろうか。
私たちは絶対的な知や無矛盾を求め, 擬似的な真理や無矛盾性を盲信する. たとえば, かかる絶対的な真理に”常識"がある. 常識とは論理系における公理のことで, 証明なしにいつでも成立するし, これを疑うことは許されない.
だが"常識"は絶対的なものでないことは明らかである. たとえばある常識では豚肉は禁忌で絶対に口にしない. 豚肉を食するわたしたちであっても生食しないことは常識である. このような常識は宗教ともよばれ, ある民族の文化・文明の”公理”となっていることは深刻で, それは異なる公理系を有する民族や文化・文明の排斥に直結する. その排斥の仕方は理屈を超越した生理的な忌避となる場合が多い. 例えば, 焼肉店で豚肉を生食する集団を目にしたら...この文言を読むだけでも気分を害するひともいるだろう.
私たちは全知全能ではないことは承知しつつ, その物性として自己組織化しようとする. この物性としての自己組織化において常識(系の構成要素・作用)は, いわば自己組織化を生じさせる”自己組織化力”であり,すべての作用の核となるものである. 文明・文化・宗教などの"常識"の基盤は自己組織化力の別称であり, 非常識・宗教的な異端とは, この力に反する力(斥力)に相当し, その力が働いている組織からは, 排斥される.
文明・文化・宗教などは, 自己組織化力の別称であるため, 自らの組織に組織化して閉じようとする方向に自然に働く. そして, 自己組織化力の斥力となるような他の系との縁起を一方的に断ち切りそのような干渉が生じないように純化しようとする. だが行っていることは、全体の形状が把握できないが本当は”丸い部屋”を、なんとか四角いカーペットで敷きつめようと四苦八苦するようなものである.
たとえばベンチャー企業が成功し大企業に成長すると, ほとんどの場合「大企業病(本来は自己組織化の核なるはずの”部課”がそれぞれ独自の権益の維持拡大や保身に走り, 組織が崩壊する病」を発病して破綻・消滅していくが, これは本来は組織を構成していた部課が, それぞれに閉じて独我的になり組織が崩壊していく, わかりやすい例である.
必要なことは, 自らの系で閉じるのではなく他の系と積極的に相互作用し知を拡大すること, である.つまり, 「シェパーディングではなくアルゴリズム」により, 他の系との縁起を積極的に生じさせ知を拡大していくことである.
誤解を招きやすいので注意しておくが, だからといって単に系を構成する「数」や「系のサイズ」を増やせばよいわけではない. 数やサイズの単なる拡大は, 見えないもをさらに”ぼやかせる”だけである. 系のサイズの拡大は他の系との縁起を生じさせるための”手段”に過ぎないことを十分に留意する必要がある.
縁起はあらかじめその全てをデザイン・制御することはできない. たとえば計算・シミュレーションや数理モデルは, それをいかに大規模化・精緻化したとしても, しょせんはその枠内に閉じたことである. 求められることは, 枠をのりこえて縁起を生じさせていくことである.
DNAや自然現象・物質など自然のメディアを用いた計算系では, 電子計算機を用いた計算にくらべて他の系との縁起を生じさせやすい. DNA, 光, 生物系など自然系の計算メディアによるアルゴリズムの実行・制御やシェパーディングは急速に発展しており手法としてより強固に確立されていくことになる.
したがって, 今後にすすむべき方向でありチャレンジは, 他の自然系との縁起を豊かに生じさせることができる計算のメディアを用いたアルゴリズム(ritual)による計算である. アルゴリズム(ritual)の計算がアルゴリズムやシェパーディングと決定的に異なることは, 計算・制御の対象について全知を仮定しなくてもよいことである. これは, 本質的に自然が不可知な私たちにとって, 大変ありがたく・重要なことである.
アルゴリズム(ritual)を発展させていくためのヒントは自然系にある. 自然系を少しゆっくりと観察してみると, アルゴリズム(ritual)による計算は, 自然系のなかでは普通に行われていることのようである.
自然系から学んだ, ヒトによるアルゴリズム(ritual)の成功例としては福岡正信による自然農法や砂漠の緑化がある. 福岡は当初は農学者として農業に関わっていくが(岐阜高等農林学校, 現在の岐阜大学応用生物学部 卒), 農生態系の観察からアルゴリズム(ritual)を探求し, やがて農生態系をシャパーディングする手法を確立した.
福岡が自然農法を着想した当時から現在に至るまで, 農生態系は”閉じた系”へとの純化をさまざまなレベルで行ってきた. 除草剤, 殺虫剤などをもちいた徹底した除草や害虫駆除. 耕作機械による地中深くまで耕してしまうことによる地中生態系の破壊(嫌気性の生物の除去につながる), な農生態系の”外乱, ノイズ”につながる他系をしらみつぶしに排除していくことで、純化を重ねてきた. その結果として, 土壌の深刻な劣化, 病虫害への脆弱性, 田畑の"人工的な純化"による, 環境の荒廃などさまざまな問題が生じてきた.
これに対して福岡は, 原則としては, 無農薬, 無除草による農生態系のアルゴリズム(ritual)とする自然農法を確立している. この農法の特徴は, 農生態系の空間を重層化していくことにある. そして深い耕起を避けて豊かな地中生態系とすることによる土壌の活性化, そして除草と防虫をあまり行わないことよる植物の繁茂と植食および肉食動物・昆虫による豊かな生態系の形成を促す. この豊かな縁起で構成される農生態系について私たちは不可知であるが, 福岡の農法は現代農法と比較しても同等かそれ以上の収量を得ることができることが示されている, また, この手法を基盤にした砂漠緑化の方法(粘土団子)も, 成果を挙げている.
福岡の方法は, 制御対象の系について積極的に縁起を生じさせることで不可知なままで系を制御する方法である. これは知の無矛盾性と絶対性を希求する"自然科学の自己組織化力"に反するものである. よって自然科学からすれば怪しく生理的に忌避したい異端である.
"科学の自然組織化力"と反するがために, さまざまな知の拡大が阻害されてきている. その弊害の甚大さには枚挙にいとまがない(科学が成立したのは比較的最近であるので, 実際のところ"宗教の自己組織化力"であるが...). それは歴史が現代に教えるものである. そして, 現在もその状況はかわっていない.
アルゴリズム(ritual)による自然計算とは, 自然系のメディアをもちいた計算・アルゴリズムにより合理的に”科学の自己組織化力に反する科学"を行う方法である. 「自然系について私たちは無知であり, 不可知である」という根源的で不可避な前提をごまかさず, 正面から向き合って, 不可知な対象を無知なままで扱い, 他の系と積極的に縁起を生じさせることで他の系から知を借用し自らの知を拡大していく. そして十分に系を拡大し, やがて系の内部にとりこんでシャパーディングや従来のアルゴリズムによる計算を行えるようにしていく.
アルゴリズムは自然系でごく一般的に用いられている. そのアルゴリズムを抽象化し, より多くの系でもちいることができるアルゴリズムをみいだしていくことが, 自然計算にもとめられる.
岡本太郎は「芸術の三要素」を以下のように提唱している.
彼は作品が「好まれる」ことを忌避した.彼は遊学先のパリで文化人類学の創始者のひとりマルセル・モースの薫陶をうけ, 文化人類学の技法や論点からの著作も多い. 彼の作品は, 世界の文化・文明が未だ豊かであった頃(西洋文明により執拗に抹殺される前)のものと共通する(特にメキシコ)}. 岡本の作品や活動から強く示唆されることは, この岡本の仕方は, 視聴覚や知識などのメディアの特性を超越した相互作用のひとつの形態となっていることである.
また岡本は芸術のみならずヒトが自らのなかに閉じることを強く否定している. そして, つねに自らが(本来は)勝手に定めている境界を破壊し, 外部(系の外部)に向かって"開いて”いくことを要求しつづけた. それは彼の警句「誰かを尊敬し評価するとは, 頭を下げてへつらうことでは決してない. 戦いを挑み乗り越えていくことだ」にもあらわれている.
岡本の喝破「芸術は爆発だ」は, 一部では曲解されているが, この"芸術=爆発"とは, 個が閉じ込められている境界を破壊し開いていくという意味であり, 本書でのアルゴリズム(ritual)による, 構成要素と作用の拡大に相当する(岡本は"その爆発とは音もしない静かなものであり, 社会の構造を内側から瓦解させていくものである"と述べている).
熊楠, 福岡そして岡本らによる仕方は共通している. そのすべては, あると思い込んでいる"知の境界"とやらの中に閉じて純化するのではなく, その境界とやらの外側と積極的に縁起を生じさせ知を豊かにしていくことを志向するものである.
不可知な私たちは本当は自然の理解など行うことができない. ましてや構成的方法(計算・アルゴリズム)は, すべてがわかっていることを前提としなければ行うことなどできない. だが非線形に満ちた自然を無理やり線形に押し込んで, できないことを知っていながら, Runge-Kuttaなどの数値計算を含む構成的方法を使って, 自らの系のなかに閉じこもって澄ました顔をしてきた.
そろそろ, 不可知なる自然と向き合い, 本当はありもしない知の限界とやらなど気にせずに, 縁起を豊かにして自然系にアルゴリズム(ritual)をぶつけながら知を豊かにしていく時である.
課題 以上,自然と計算についての私論を述べてきました.自然と計算についてのあなたの私論を述べてください.春2期はこれを最終課題とします.
所感:春1期,2期と比較的きちんと論じてみた.そして,当初に予告したとおり,課題についても余計な手加減をせずに,そのまま出題した.難しい課題もあったかとおもいますが,志高く,果敢に挑み,レベルの高い回答が寄せられました.率直に敬意を表します.すばらしい.
最後に「南方熊楠の科学論にたちもどって締めくくる」という,終わり方もあったと思いますが,あえて,科学を超えていく未来志向の締め方をしました.それは,この国の科学の空気感に強い危機感をおぼえているからです.
科学の歴史は「異端を排除する」歴史でした.あまたの先駆者たちが,クレイジーと呼ばれ,科学ギルドから徹底的かつ執拗に指弾され排斥されてきました.その傾向が強くなっているとおもいます.ただでさえ現代科学はあまり進歩していません.エジプトやインカなどの文明と比べても,現代科学のレベルはとても低いとおもいます.幸か不幸か現代をいきる私たち,とくに,私たち科学者は現状を嘆いていることは許されません.先人たちの消えてしまった足跡を夢想しながら,先へ進まねばならないのです.
現代科学は非線形系に無力です.方法論的な限界にきていることは,だれも否定できないとおもいます.ですが,自然系と称しているものはほとんどが非線形です.この先の科学を切り開いていくには,まったくあたらしい方法,が必要です.どのぐらいあたらしいかというと,いままでの科学の道具が全部使えないぐらいあたらしい方法が必要なのです(だって,いままでの科学は,線形科学ですから).志をおなじくする方がもしいたら,一緒に,まったくあたらしい科学切り開いていきましょう.
最後に,志高き皆様へ,私を叱咤激励してくれた尊敬する諸先輩からいただいた言葉をお伝えして終わりにしたいとおもいます.
いずれも,プロの研究者でキャリアをつくっていくには「とても厳しい」アドバイスです.とてもお勧めできません.参考まで.
また,これをなんとか実践しようとしてきた立場からの経験ですが,
よってたかって叩かれるので,半端なく心が折れます.でもね,心が折れてから何歩歩けるか?が重要だと思います.また,特に若手の頃には,とんでもなく厳しい経験,をしたほうが,あとになって「バキバキに心が折れて,から,匍匐前進できる力」が身につくと思います.
武運長久を祈ります.